作品と人格は別物・・・解らない

指揮者シャルル・デュトワがセクハラで訴えられてから大好きなデュトワ指揮のルーセルの交響曲が聴けなくなってしまった。デュトワが本当にセクハラをしたのかどうかわからないが、作品を聴いているとどんなに素晴らしい演奏であろうと聞いている最中にセクハラという言葉が頭の隅に浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返し、悲しい気持ちになってしまう。人格と作品とは別物とよく言われるが、どんなに素晴らしい演奏でも聴いていながら頭の片隅で演奏者のセクハラという忌まわしい言葉が浮かぶのはやっぱり純粋に音楽を楽しむことはできない。でもロマン派の作曲家ブルックナーの交響曲が崇高な作品だと感じながらほぼ毎日聴いているものの、よくよく考えてみるとブルックナーもロリコンだったと言われていることを考えるとやっぱり人格と作品は別物であるということになる。私の感性はデュトワのセクハラ問題とブルックナーの人格問題に関して整合していない。
現在進行形の出来事と過去の伝説との違いなのかと片付けていいものかどうか。
人気芸人の宮迫博之と田村亮の問題とデュトワ、ブルックナーの問題を重ねるのは正しくないだろうとおもう。お笑いはある程度汚れたイメージがついていてもそれを逆手にとって笑いに変える力があるように思う。
どうも日ごとに管理側が悪いのかプレイヤー側が悪いのか手のひら返しに代わってしまう世論。まあ、こういうご時世だから仕方がない。移り気なネットの反応は当てにならない。でもお笑い芸人のあんな悲痛な表情を見てしまうとそうすぐに宮迫さんや田村さんの話芸を素直に楽しいと思えるかどうか自信がない。二人を笑顔でみられるようになるまでしばらく時間がかかると思う。そのために今は謹慎しているということかもしれない。しかしどうもなあ、お笑い芸人のあんな表情は見たくなかった。
お笑いも音楽も(絵も)癒しであり楽しむための、衣食住と同じくらいに、これがあるからこそ人らしく生きていけている大切な要素である。
私がどう書いても説得力がないのは重々承知している。
eenn
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