石塚亮 よしなしごと 心の風景          

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<<   作成日時 : 2016/06/24 16:47   >>

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誕生するのに十月十日かかるのに、死は突然やってくる。

大切な人と死別した悲しみは大きい。
その悲しみは自分のそばに死別した人を感じているからなのだ。
死別というのは、大切な人が消滅したわけではなく、本当は自分のすぐ近くにいるのだ。
すぐ近くにいるにもかかわらず、自分の体の中に死別した人の声や温もりが残っているのに、その姿を見ることができず、触れることもでず、その声を聞くこともできないからだ。
今一度、そのことを真面目に考えたいものだ。
できることなら、時々、繰り返し考えたい。
そうすることにより、今、生きている自分の大切な人への慈愛も深まるものではないかと思う。

激励のつもりで、死別を悲しむ人に「いつまでも悲しんでばかりいても、安心して成仏できませんよ」などと解ったようなことを言う。まるで脅しである。恐喝。
そして無理やり外へ連れ出そうとしたり、「元気を出して」とか「がんばって」とか言いながら尻を叩く。
死別の悲しみで、絶望感にさいなまれ、受け身になってしまった人に、死別した二人の関係の深度を知りもしないで、無頓着な言葉をかけていることに気付いていない。
無理に行動を強いたり、不用意な言葉を掛けることで、心の奥深くに癒すことのできない傷をつけ、歪め、壊してしまう。
死別の悲しみは、他の悲しみとは違うのだ。
自分の発する言葉に思い上がってはならない。
死別に悲しむ人は、悲しみながらも必死でもがき、その中から生きようとする本能が働いている。
余計な励ましは、むしろリカバリーを遅らせる。
励ましているつもりが、実は死別した二人の「悲しみという対話」に割り込み、土足で踏みにじっていることに気付くべきなのだ。

死別に悲しむ人が持つ時間は、我々の持つ時間とは長さが違うってことに気付かないと。
良かれと思ってやっているつもりかもしれないが、無神経な事をしているのだ。
静かに見守ることだ。
それを理解するためには、今いる大切な人のぬくもりを心と体で知っておくべきなのだ。

全てが便利になり、スピードを要求される今。
心に空いた穴を埋める時間まで短縮を要求されるようになってしまった。

ここにいない人と話すこと、死者と語らうこと。黙って語らうこと。今ここにいない人に向かって、語りかけること、問いかけるということ。居ない人へ問いかけることで自分を励ます。自分が励まされるということのためなのか。
ここにいない人と語らうことができる場所というのは、ここにいない人がそこにいると感じられる場所であるともいえる。それは何もお墓や仏壇の前というわけではない。お盆やお祭りもそう云った場所といえるだろうが、それだけでなく、思い出、その人と縁の感じられる場所。海であったり、山であったり、或いは街のどこかであったり、ここにいない人との縁の感じられる場所。さらには、ふとした時間であったり、音楽を聴いているときだったり、ほんの一瞬の気配を感じたときだったり。

ガサツで、慈悲の無い私が言うのもなんだけが。梅雨空を眺めるとなんとなくこう云う事を考えてしまったりするお年頃。この歳になってこの手の話をするたびに誤解を招き閉口するが、自分なりの死生観を考えることは私は決して悪い事ではないと思う。
以前に書いた話を繰り返してばかりいるが、そこは年寄りだからってことで。







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