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zoom RSS 申し訳ないが大して面白い話ではない。

<<   作成日時 : 2017/05/29 16:40   >>

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 街中で昔の知り合いの甘木(仮名)氏に遭遇。30年ぶりの再会。年齢は私より相当高い。80歳近い年齢になっているはずだ。当然見た目は老けたが、すれ違いざまにお互い「おおっ、久しぶり」とかなんとか言ったような気がする。ばったり行き会っただけなので二言三言交わしただけで別れた。
 不思議なもので見た目が変わってもその内側から醸し出す雰囲気と言うかそういうものを感じられ、一目でその人だと分ることがある。ただ、名前が思い出せない。甘木(あくまで仮名)氏のことはいろいろに思い出があるのに名前だけが思い出せない。そして甘木さんも私の名前忘れているようだ。しかしお互いに自分の名前を思い出してほしいとは思わないし思い出そうという気もない。ただ一瞬の遭遇で、懐かしさと蘇る思い出に小さな喜びを感じること。それだけで充分。名前を憶えているかどうかはどうでもよくて、思い出がが残っているかどうかが大事だ。ある程度歳をとるとシガラミが鬱陶しくなってくる。再会の喜びを一瞬だけ味わうことができればそれで満足ということだ。だから別れ際もあっさりしたものだ。「また機会があったら…」などと、未練じみたおざなりな定型文は言わない。
 
 長い前置きはこれくらいにして・・・。甘木さんからは当時、「あきらちゃ」と呼ばれていた。年上の人たちからは当然「石塚君」。会社では「石塚」とか「ぼく」。名前さえ読んでもらえないことがあった。20歳の若者からすれば10歳も20歳も上の人とはそれだけ心の距離が開いている。甘木さんも最初「ぼく」だったが「石塚君」に変わりいつの間にか「あきらちゃ」という呼び方に変わっていた。「ちゃん」ではなく「ちゃ」である。「ちゃ」と言えば加藤茶である。ラ・クカラチャである。ラ・クカラチャは違うか。
 「あきらちゃ」。大概の大人たちから名前さえ読んでもらえなかった状況で「あきらちゃ」と呼ばれるようになることに親しみを感じるようになりむしろ「石塚君」と呼ばれるよりも嬉しかったりする。「〇○ちゃ」と言う呼び方が方言なのか甘木さん界隈では相手を「〇○ちゃ」と呼び合っていたこともあり、「あきらちゃ」と呼ばれることは親しい仲間として認められたような気がして嬉しい気持ちになったのだった。
 30年ぶりの再開ではお互いの名を忘れてしまっている。甘木さんも私を「あきらちゃ」と呼んでいたことを忘れているようだが、私の持つ甘木さんの思い出の量と甘木さんの持つ私の思い出の量とどれくらいの差があるのだろうと、なんとなく思う。
 甘木さん、名前が思い出せない。ま、いいけど。

ちなみに仮名「甘木」は内田百關謳カが使っておられたので真似してみた。某の字を上下に分解した甘木だ。


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